【ラウンド】ゴルフとはミスする競技

ラウンド

目標スコアを意識してラウンドするのも楽しい

芝の上のボールを打って前に進み、最後にカップへ入れる、ただそれだけである。かくも単純な競技が人を虜にする魅力はどこにあるのだろうか。ゴルフにおいて、その一打を打つためには、距離であったり、ライであったり、番手選択であったり、風向きであったり、スイングの確認ポイントであったりと様々な要素を考慮してその1打に魂を込めるものだ。またその1打を打つための選択にはその時の心待ちが大きく作用する。その状況が自分の得意としている状況なのか、不得意な状況なのか、この1打に至行程は良い流れできているのか、すでに自信を失っている状況なのか、その組み全体の進行がテンポよく進んでいるのか、遅れていて後ろの組みを待たせているのか、など1打の選択にはメンタル的な要素も密に作用する。

自身の技術、その場所の物理的状況、その時のメンタルの有様等、無限の組み合わせから1つのショットを選択しその1打に向き合うのである。しかし人間なのである。その無限の組み合わせから Best of Best が選択されれることなどあり得ない。つまり結果はミスショットとして具現化する。そのミスの大小に比して自分の信じている自身の実力とのギャップで一喜一憂するのがゴルフである。また、そのミスの大小をそのゴルファーの技量の数値として表現したものがスコアであり、その客観的な数値情報であるスコアでも一喜一憂するのがゴルフなのである。微塵の感情の入る余地のない冷めた数値情報であるスコアは、痛々しくもそのゴルファーの実力を否応なく見せつけてくる。そしてその数値情報は自分自身だけではなく、広く同伴競技者へも公開されるのである。

ゴルフとはミスする競技なのである。ところがこのスコアと呼ばれる冷めた悪魔は言い訳を一切受け付けない。風が強かろうが、グリーンが凍っていようが、寒さで体の可動域が小さくなっていようが、地面が硬く思いの外弾み距離が延びて池に入ろうが、バンカーの縁にボールが止まって打てなかろうがお構いなしなのである。各ショットを打つにあたり、その場その場の状況判断から、自分が思うベストの選択が思い通り飛んでいかないのは周知の事実であり、受け止めなければいけない現実であるということも理解している。そして結果を素直に数値化し記載していくのも仕方がないことなのである。

まぁ前半9ホール位まではこんな事もあるかと気楽にダボやトリなどと記録していくのである。ところが後半に入りホールが進んでいくうちに、「あれ?なんか変だなぁ?」「ん?またダボ?」「やだなぁやだなぁ、こわいなぁこわいなぁ」ふと残りホールとスコアを比較して最終スコアを予測してびっくり、このままでは100を超えてしまう。残り3ホールはボギーを1つでも叩くと100になってしまうことが判明。
これまで以上になり振り構わず16番、17番はパーを拾い、最後は18番ロングホールである。なんとか3オンさせる。ファーストパットを打つもボールはカップを2メートルオーバ。これを外すとちょうどスコアは100なのである。久しぶりに緊張感のあるパットであるが無常にもボールはカップ右を通り抜けてスコアはボギー、トータル100でゲーム終了なのである。

今日のラウンドを振り返った時、ミスしながらも、楽しくラウンドはできたのは事実である。しかし、このスコアと呼ばれる無味無臭の数値データがこれほど無慈悲にも心に響くとは予想だにしなかった。リベンジしたいと思う気持ちがふつふつと湧き起こってくるのである。すでに出してしまったスコアは消去できないまでも上書きしたいという思いなのである。

ゴルフはミスの大小で一喜一憂することが楽しいのだと信じていた。スコアについてはハーフで運良く40切れそうな場合は意識はしていたが、大叩きしてもそれほどショックはなかった。それこそ運が悪かった程度に納得していたのである。しかし今回100越えの可能性が現実味を帯びてきた時は、無味無臭のはずのスコアが大きく自分を支配していた。普段味わうことのない緊張感で挑んだ最後3ホールは、スコアを積極的に意識し、必死でパーを拾いに行くゴルフであったが、これが案外楽しかった。ミスを最小限に抑えようと工夫してショットしその結果を楽しめることがゴルフの魅力であるが、合わせて目標打数を決めてそれに挑戦することが出来るのもゴルフの魅力なのかもしれない。

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